本土復帰から50年!復帰前・直後の沖縄はこうだった!

2022年5月15日に沖縄は本土復帰50年を迎えます。この50年間で復帰前の沖縄とはすっかり景色が変わりました。そこで本土復帰50年を機に、本土復帰前の懐かしい沖縄の風景をご紹介していきましょう。

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児童数3000人規模!那覇市屈指のマンモス小学校集中エリア

学校

今では1学年3クラスという学校も多い那覇市内の公立小学校ですが、復帰前は児童数3000人規模の大規模校がいくつもありました。

大規模校が集中したのは真和志地区・与儀地区・城岳地区などで、付属の幼稚園に通う児童も含めると1つの小学校に約3000人の児童が通っていたといいます。

さすがにこれだけの人数なので教員の数もケタ違いで、全児童が参加する朝礼時には小学校の校庭が児童・教師で埋め尽くされました。

夏の風物詩!ミッキージュースとアイスケーキ

アイスキャンディー

復帰前の沖縄では、夏になるとやってくる「アイスケーキ売りのおじさん」が子供たちに大人気でした。

通称・アイスケーキ売りのおじさんが売っているのはいわゆる「アイス(アイスキャンディー)」のことで、「アイスケーキ」という呼び方そのものも本土復帰前の沖縄ならではの呼び方です。

アイスケーキに並ぶ大人気商品が「ミッキージュース」で、イッセンマチヤー(一銭まちや)と呼ばれる駄菓子屋で販売されていました。

3角形のビニール袋にネズミのイラストが描かれていたことが名前の由来といわれていますが、のちにネズミ以外のイラストが描かれたジュースもすべて「ミッキージュース」と呼ばれたそうです。

国産車も左ハンドル!復帰前の右側通行

左ハンドル

日本では「右ハンドル=国産車」「左ハンドル=外車」ですが、本土復帰前の沖縄は国産車でも左ハンドルでした。

大きな理由としては、本土復帰前の沖縄はアメリカ式の右側通行だったからです。

そのため自家用車も必然的にアメリカ式の左ハンドルで、「車は右側通行」が本土復帰前の沖縄の交通ルールでした。


デパート屋上に遊園地!山形屋

メリーゴーランド

平成11年に閉店するまで国際通りに店を構えていた山形屋は、昭和5年に沖縄初の百貨店として誕生しました。

創業当初店を構えたのは当時那覇の中心地であった東町ですが、10・10空襲による焼失や戦争などで幾度か移転を繰り返し、最終的に国際通り・牧志に店を構えると閉店まで同じ場所で営業していました。

「特別な日のお出かけ=山形屋」といわれるほど世代を問わず愛された山形屋の屋上には、本土のデパートで定番の屋上遊園地がありました。

屋上庭園にはゴンドラ型飛行塔・メリーゴーランド・まわる豆自動車などがあり、平日でもにぎわっていたそうです。

ちなみに屋上遊園地につながるフロアのレストランでお子様ランチを食べるのが、当時の子供たちの憧れでした。

暮らしの大変化!ドルから円へ

ドル

戦争終結から本土復帰までの27年間は、沖縄の方言で「アメリカユー(世)」といいます。この言葉を象徴するのが、戦後復帰前の沖縄の法定通貨「ドル」の存在です。

戦後すぐに、円からドルへと変更になったと思っている方が多いのですが、実際には沖縄で米国ドルが使われるようになったのは昭和33年で、それ以前はまったく別の通貨が使われていたのです。

終戦直後の占領初期は食料品から衣類まで生活必需品はすべて配給制でしたから、通貨はありません(無通貨時代)。

その後…戦後初の通貨として使われたのが、戦前まで使用していた日本円です。これを撤廃して新たに採用されたのが米軍のB型軍票(B円)で、そこからさらに米国ドルへと変わりました。

終戦後 通貨の移り変わり
通貨無し⇒日本円⇒米軍のB型軍票(B円)⇒米国ドル

そんな復帰前の沖縄では、法定通貨が変わるたびに銀行前には両替のための長い列ができたといいます。

ちなみに戦後復帰前の沖縄に外国産商品が数多く並んでいたのも、米国ドルが法定通貨だったことと関係があります。


復帰前のナンミンの定番!水上店舗

波之上ビーチ

今でも県民に「ナンミン」の愛称で親しまれている波之上ビーチ(当時は波之上海岸)の風景も、本土復帰前の景色と大きく変わっています。

今では砂浜のあるいわゆる「ビーチ」ですが、もともと波之上ビーチは砂浜のない岩礁海岸でした。とはいえ那覇で唯一の行楽地だったため、復帰前も夏の間は多くの子連れファミリーでにぎわっていた場所です。

そんなナンミンには水上店舗と呼ばれる貸しボート屋が並んでおり、バロック風の建物の中では食事や冷やし物が食べられました。

水上店舗には貸しボート屋と貸しボートをつなぐ専用スロープがあったので、貸しボートで海遊びをした後、水上店舗でひと休みするのが夏の定番コースでした。ちなみにナンミン・水上店舗には満ち潮になると入れる海水プールもありました。

コンクリート製の海水プールは岩礁海岸だったナンミンだからこそ作られた施設で、「小さな子供でも楽しめるナンミン施設」として子供を連れたファミリー客でにぎわっていたといいます。

【まとめ】復帰前の懐かしい景色は今も街の中に残っている

コザゲート通り

ご紹介した復帰前の風景は、当時を知る世代にとっては懐かしいものばかりです。

今では驚くような風景ばかりですが、復帰から50年ほどしか経過していない為、その名残は今もまだ数多く残っています。

沖縄・本土復復帰50年を機に、あなたの街のにあるアメリカ時代の名残(風景)を探してみてはいかがですか?


沖縄の本土復帰前・直後の生活の変化